2022年1月19日水曜日

9月読書会(2021)「家父長制と資本制」


<読書会9月から>

 時間をかけて(かかって)「家父長制と資本制」現在やっと補論|批判に応えて」にきました。ここでは上野さんがフェミニスト側からとマルクス主義者側からの批判に応えてバサバサと切り込んでいくところ(〜P203)。

「容赦なく小気味いいね」とい>うコメントが聞かれる中で違うトーンの感想もありました。 「それはそうですが、執筆した当時の時代性なのか『労働者と言っても男性のことしか念頭になかった』ように思うが、女性の視点を女性労働者をも含めないと。また、そこが女性の対立的構図ではなく、男性マルクス主義者自身の無自覚な男性中心の世界観に切り込むのは、男と女の対立という観点ではなく、LGBTQを包摂する視点が必要ではないでしょうか?」。確かにそうは書いてないんだ。と。

 そういう話の展開の中でエルさんが、”日本語のジェンダーとgenderの違い”についての疑問を投げかけました。「経験上、同じ意味ではないらしいことを知っていても、 ”カタカナのジェンダーは日本語ではなんと説明されるのか” について「男女(共生」が抜け落ちてしまっているからそこも包摂するような表現ではないかしら?」という感想もあり、そうなのかもしれないと思った。

 それに対して「”科学的認識”の名の下に性差別的なイデオロギーを押し付けてきた全ての理論を冷笑する」上野氏が”女性の視点から見るとこう見える世界を見え化していく”小気味よさ。

2021年9月の読書会から思い出したこと

先日の読書会も始まる前のズームがうまく繋がるまでの時間がドタバタ だった。少しずつ慣れてきてこのドタバタも楽しみになるかな。会場5人とオンライン2人の7名。 

「論文を書く上で日本語で読んで英語で書くときにその差異が難しい」 

というLさんの言葉にはっとした。日本語では「gender equality 」ではなく、使用している「男女平等、男女共同参画」という言葉 自体には「男と女」しかないんだ。

男女以外を排除している訳ではない けど、言葉は排除してることになるのかと思ったりした。 

「インドでは(多分、南アジアでは)元々、男でも女でも ない性があるものとして認められている」という話してくれた。いくつかある とのことだが、その中に”ヒジュラ”という存在があって、それは皆が知っていて ”受け入れらた存在で” 神聖な存在でもあり同時に親としては少しだけ残念に思う存在”と いうふうに認識されているようだった。

こんな記事もあった。「性別は自分で決定、「第3の性」認める インド最高裁」

https://www.cnn.co.jp/world/35046625.html

2022年1月17日月曜日

2022年1月「家父長制と資本制」

年が明けて初めての読書会でした。(p241〜p253まで) 
「恐慌下の家族とケインズ革命」〜「主婦の大衆化と女性階級の成立」